早すぎる職業決定
                0五年十二月三十日朝日新聞・「学生の質問」コーナー参照
 
 大学生でも言っている。「大学三年生で職業を、あるいは就職先を決定させられるのは早すぎる」と。誰が仕掛けた話なのかは筆者にはいまだに分からないで居るのだが、ジョブカフェだのインターンシップというのを既成の路線であるかのように大学が受け入れ、学生に勧め、学生は浮き足立っている。短期大学では二年生になって職探しの動きを始めたのでは遅すぎるとしてナント、入学した一年生の夏休みからそろそろ動き始めようなどという者まで出てくる始末だ。「職探しが目的で大学・短大に入学したのか!」と怒鳴りつけたくなる(そして「そうだ、それで何だ?」と開き直る学生の顔を想像すると、この国の高等教育の現状がなさけなくなる)。仕事の選択という問題は当然ながら「人生如何に生きるべきか」の問いの一環をなしている。したがってこの問題「人生をどう考えるか」を学ぶために大学進学をした学生たちにとっては、少なくともその大学でこの問題の解決に目鼻が付くまでは、職業の決定などで軽々に動くわけにはゆかないハズである。それとも、大学が提供してくれる課業を抜きにして決めるくらいの職業選択方法ですら、高等学校では肝心のことは何も教わらなかったというのだろうか。
 さしあたり筆者の念頭にあるのは、筆者十五歳のときに示された人生の歩き方の書物、及びその後もくり返し語り聞かされた職業なり何なりの人生に関わる選択の「秘訣」のことである。筆者の恩師たちは、恩師と思っている人たちは、時と場所とは異にするがみな一様に言われた、「電車に乗る時は、混んだ電車は一本二本待てばがら空きが来る」「人の嫌う仕事をするがいい」「とにかく、一番大事なことを先ず第一にすることだ」。これらのことは今でも内村鑑三の『後世への最大遺物』(岩波文庫)などを捲れば読むことができる。おそらく最も失敗のない職業選択の秘訣であろう。------あるいはまたいつまで経っても新鮮な問題提起であるのかもしれない(筆者曰く、地獄の隣り合っていない天国なんて屁のようなもの、全く疑義の残らない問題解決など解決の名に値しない)。
 いま、この書物に関わる問題を少し立ち入って解明するだけで、クリスマスまでに何とか就職が決まったと胸をなで下ろしている学生も、去年の内から内定を貰って遊び回っていた学生も一様に臍を嚼んで悔しがるにちがいない(もし平然としていられたら、先立つものの欠如の方が余程に由々しき問題であるということになろう)。さて、大方の学生が「良い職業」と見なしている職業とはどういうものをいうのか。@「人気職種」、A高収入職業、B自分の性格に合致し給料もそこそこある職業。これらに無縁の「危険」で「きつく」て「きたない」仕事は、給料が少々高くても御免被りたくなるらしいが、それもまた「自分の性格」に合致しさえすれば、もう一度求人レースに並びなおすことも可能である。ここでこれらに該当する具体的な職業名あるいはさらに職場名まで書き上げて見せるのもいいのだが、時間と紙面の節約のために失礼することにしよう。どれを取っても、週休二日年休何十日はやりくりして確保されるとして、いずれにしてもその仕事に従事している間は「自分の人生」はペンディングされていると言えるだろう。そしてついでながら言うと、この仕事が人生の中心に座り込むと、定年退職のめでたい日を迎えるまでは、仕事以外の時間も仕事に振り回されることになるのだ、と。飯を食うのも仕事向け、酒を飲むのも仕事の憂さ晴らし、という訳だ。こうして、この〈悲劇〉の主人公の頭の中からは、めでたい定年退職の日までは、もはや「肝心の問題」は影を払うのだ。この「肝心の問題」、じつは私も始めて書き記した言葉だが、そしてまた大学入学を「良い就職のため」にするひとたちにとっては一度も念頭を横切ったこともないのだろうが、たとえば「何のために良い就職を選ぶのか」という「問題」である。「それは、幸福な人生が良い就職によって決まるからだ」と言って済ましている人には、「肝心な問題」とは「幸福な人生とは一体何だ?」という「問題」である。これが、二十歳まで問題にならずに来たのは、先立つものの欠如のためか、あるいは高等学校までの学校教育の欠陥に依るのだろう。「幸福とは、それぞれの人が欲しているものが手に入った状態、もしくはそのときの喜びだ」などという小学校の先生の言葉が疑いもされずに生き続けるのだからだ。
 「人生の一大事というのは確かにあるのだろうが、それは退職してから考える。今は食べること、家族を養うことが大事だ」という人も居る。だが、そういう人の人生は「定年退職を待つ人生」であり、少なくとも人生の盛りの四十年の時間は、この人から欠落する。さらに、それでは退職してから「モノを考える」ことがどれだけ出来るか、と問うてみるがよいだろう。しぶとく八十歳まで生きる積もりでも、あと二十年しかない(「二十年もある」と頑張り給え)。四十年間「考えない訓練」をしてきた頭では、中学生レベルの考える頭にするのに四十年を必要とするではないだろうか。これはオーバーな表現だとは思われないがいい。筆者が旧友たちに、たとえば「般若心経」の解説論文を示した時に返ってくる反応は、この言い分の立派な裏付けとなっている。悪い習慣はゼロ点に引き戻すためには、それが出来上がるまでの期間と同じ時間を要する。これは習慣論の一応の結論として通用しているものだ。
 私は、一人で先に走りすぎたであろうか。
 大学生が冒頭の新聞記事で述べているところでは、この職業選択の問題は難しい、というのだった。難しいというのは、筆者も触れたように、良い問題であるということだ。対論もまた真を含んでいるのだからだ。そもそも、「急いで職業選択をする」大方の大学生に対しては、大学を出ても就職しない連中は「ニート」と呼ばれ、文部省や経産省関係者からは腫れ物のように目障りにされている。「アアはなりたくない」というのが大学生の心の底にあるのかも知れない。あるいは、「デハ、オッサン、おたくはどうしてんの?」と問うて来られるかも知れぬ。これはキツイ質問である。たしかに筆者は冒頭に触れたように、有難い恩師の言葉を真に受けて、人のやらぬことを選んで生きてきた。その結果、筆者五十六歳にして、未だに二十歳の息子と同様に自分の「適職」を探している始末だ。いまや大学は「独法化」の秋、産業界の指導よろしく、金にならぬ部門はぶっ潰してしまえという勢いは凄まじい。筆者の研究している「文学」など、世の厄介者であるかのようだ。同じ文学をやっているはずの研究者たちの多くが、時代の流れに棹さして、人売り稼業に励むようになってきた。それで筆者はこの頃思うのだ、時流に乗れずにジクジクするよりはいっそのこと適職を選んで(というのは、また、金にならぬきつく汚い危険な仕事を)生業とした方が余程気楽だろう--------だが、気楽では恩師の教えに背く、もう少し此処で踊ってみようか、と。
                                           051231