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『プライドと偏見』の人間観
   J.Austen's vew of humanbeing in PRIDE AND PREJUDICE                                   上 野 正 二
はじめに
英文学の専門家でもない筆者がこのような論文を書くことには、専門家の方々の顰蹙を買うことを当然覚悟しなければならないだろうが、たまたまJ・オースティンの Pride and Prejudice を手にして以来、いよいよ強くなる一つの確信があり、やむを得ずその当否を問うために公にせざるを得なくなった次第である。当初は、目にした〈論文〉がいずれも点数稼ぎの字数合わせや大学生のお勉強レポートのようなものばかりであった(註一)ことも、この作家にしかるべき地位を確保させたいという思いを強くさせたのであるが、決定的であったのは、岩波文庫の『高慢と偏見』の訳者、富田彬氏の次の文章を読んだことである。
〈わたくしは彼女にいろいろとないものねだりをして、彼女の領域における彼女の価値までも抹殺しようとする流儀の批評には不賛成である。たとえば、W・H・ギャロッドという一教授はオースティンの小説の世界が、富裕な紳士淑女やその娘たちだけのために神がつくったようなところで、「神や貧乏人をいれる余地がないばかりでなく、自然までもきびしく除外されている」と非難しているが、このように一種のバルザック的リアリズムの観点からオースティンを非難することは、見当違いでお粗末な批評と言わなければならない。-----中略------マーク・トウェインとかハーマン・メルヴィルの小説などの方に人間的親しみを感ずるのである。彼らの小説には悪魔がいるが、それ故にまた神もいる。オースティンの小説には紳士淑女ばかりでなく、たしかに人間もいるが、その人間はすでに悪魔と縁を切った人間、すなわち社会人、教養人である。〉(二七八−九頁)
 こういう文章が通用している英文学界というのは何なのだろう。これでは「文学」が本来持っていた機能は、今日の英文学界では死んでしまっており、ということは今日の英文学界では古典教養などというものは完全に欠落してしまっていることになるのではないか。このように驚かされたのである。ギャロット教授とは別観点ながら、富田氏もオースティンの作品には神が不在である、と言う。神とはそもそも何を指して、こう言われるのだろうか。神を語る文法を回復しなければならないだろう。以下の拙論では、徳論、文芸創作論における悲喜劇論、および恋愛における想起論を引き合いに出して、それを試みた。
 
「相当の財産を持っている独身の男なら妻を欲しがっているはずだ、ということは、普遍的に承認されている真理である。」
『プライドと偏見』の冒頭の句は、作品解釈を試みる多くの人に引用されているものであるが、さて、どれだけ重要性が認識されていることであろうか。ほとんどの引用者が------これが皮肉であることを指摘するものを含めて-----引用するに留まり、それが如何なる意味を有しているのかに立ち入らないこと自体が、既に解釈の失敗を意味してはいないだろうか。この句には、「初めて近所に越してきたそういう男の気持ちや意見(feelings or views)が知られることはいかに少なかろうとも、この真理は周辺の家庭の人々の心にしっかりと植え付けられているので、その男は当然自分たちの娘の誰かのものだと見なされるのである。」という言葉が続くのである。最初の文章では、経済性と男女の結びつきという、人間が人間として生きていくためには、それに関わらざるを得ない重要な二つのことがらが提示されているのであり、第二の文章において、その二つのことがらに関わる際に重要であるのは、何と言っても、やはり当人の〈気持ちや思想〉であることを示している、と読まなければならないであろう。この二つの対象に向かう人間主体のあり方(気持ち・思想)がどのようにあるかによって、ここから悲劇もしくは喜劇が始まるという寸法になっているのである(註二)。経済法則と恋愛法則とは、それ自体は人間の気持ちに還元され得ない、それに即してひとは生きるほかない〈自然な法則〉である、と一旦は言うことが出来るであろう。たとえばエリザベスの場合経済法則というのは、母親が「お前がそうして片っ端から申し込みを断ってゆく了見だと、お前は一生夫を持てませんよ。-----そしてお父様にまさかのことがあった時には、いったい誰がお前を養ってくれるか、私は知りませんよ」(XX,108)というような仕方で、その社会の通念としていずれの社会にも厳然として存在しているのである。しかしまた、この法則にいかに対応するかということは、それに対応する人の人となりによって決まってくるのであり、また人となりを決めてくるのである(註三)。このような、それによって人の生の善し悪しが裁かれる、いまひとつ次元を異にする根源的な法則が存在することが明らかになるであろう。ここに悲劇と喜劇が生まれてくるのである。
 この作品が、喜劇と悲劇を含み持つ作品であること自体も、多くの人の指摘するところであるが、それは適切に評された場合には、はたしてどういう意味であるか、という点については、必ずしも適切な解釈は施されてはいないであろう(註四)。われわれはしっかりした見通しを立てておかなければならないであろう。第十一章に、次のようなくだりがある。
「彼(ダーシー)が言った。『ビングリー嬢は、僕を買いかぶってくださったんですがね、最も賢明な、最も善良な人間でも、いや、最も賢明な最も善良な行為でも、戯れを人生第一の目的とするような人にかかっては、笑いぐさにされるやも知れません』。『ほんとうにそうですね』とエリザベスは答えた、『そういう人もいるもんですね。でも、わたしはそういう人でありたくないと思ってますわ。わたしは、断じて、賢明なものや善良なものを笑いものにはしたくないと思っています。愚かしいことや下らないこと、気まぐれなことや理屈に合わないことは、なるほど面白いと思います。そしてなるだけ笑ってやるんです。』」(XI,53、註五)
 ここには二つの笑いがある。冗談を人生第一の目的とする〈笑い屋〉のこととしてのそれは、もっと一般的に言えば〈滑稽・諧謔もの〉と言い換えることも出来ようが、それはあのソクラテスを嗤いものにした『雲』の作者のように、対象を選ばないのである。愚劣なものを嗤うエリザベスの嗤いは、「私、笑いが本当に大好き」(同)という彼女のものであっても、〈風刺〉と呼ばれるべきものであろう。そして、最も早いころの文芸創作論に属するアリストテレス『詩学』(註六)によれば、喜劇は第一に、風刺をこととすると見られている。文芸作品というものは、「行為を描写するのであり、そして行為するその人間たちはすぐれた人間であるか劣った人間であるかのどちらかでなければならぬ」。「そして、悲劇が喜劇とくらべてことなっているのも、ほかならぬこの点においてである。すなわち一方は、現にわれわれの周囲にいる人々よりも劣った人物を描写することを意図し、他方は、よりすぐれた人物を描写しようと意図するのである」(『詩学』二章)。こうして、この作品の笑いは、主として劣悪な者を嗤う笑いであることになるが、それは笑いそのものを目的とするのではなく、ほかならぬ、優れたものを優れたものとして浮かび上がらせ描きあげるための一つの操作に他ならないと言えよう(註七)。
 では、悲劇はどうであろうか。先のアリストテレスは、すぐれた人物を描写することを意図するものが悲劇だと述べた。しかしそれだけでは悲劇の定義は充分ではなく、むしろ一般には「いたましさと恐れとを通じて、そのような諸感情の浄化を達成していくもの」(同六章)といった点こそ大事であることになろう。こういう点に関して『プライドと偏見』はどのように展開するのか、はたしてそういう意味での悲劇がここに存在するのかどうか、を精査しなければならないであろう。-----ここでは痛ましさによらずに、また諸感情の浄め介さずに直接に〈神的な狂気〉が、大いなる主題として取り上げられるのであることは、おいおい見てゆく通りである。
 
(一)、ダーシーのプライド
 さて、はじめに触れたような状況が、ベネット家の周辺でも出来した。ビングリーという金持ちの青年が近所のネザーフィールドの邸宅を借りて住まうことになったのである。すぐに招待したりされたりし始める。あらゆる機会が若い男女の接近の好機とされるのだが、中でも、舞踏会が催されれば、これは絶好のチャンスである。かくして、エリザベス・ベネットの姉、ジェーンはビングリーに見初められ、彼女自身も憎からず思う間柄となる。エリザベスはどうかというと、ビングリーの親友であるダーシーにプライドを傷つけられながら、持ち前の〈戯れ好きな何でも笑ってやる精神 lively, playful disposition, which delighted in any thing ridiculous〉(III,9) によって、ダーシーの性格を面白おかしく一座の人々に伝える張本人となる。ダーシーは、この舞踏会の始まりには、「立派な背の高い容姿と、うつくしい目鼻立ちと、品のいい態度と、」ビングリーよりもさらに裕福な「年収一万ポンド入るという噂とで、すぐに部屋中の注意を一身にあつめた」(III,7-8)のだったが、誰とでもはうち解け得ない性格で新しいサークルの人たちとは踊らず、さらに、踊りにあぶれたエリザベスの耳に聞こえるところで、彼女を「がまんはできるけど、僕が誘惑されるほどの美人じゃない。それに僕は今のところ、他の男たちに取り合って貰えないお嬢さんに箔を付けてあげるほどの物好きではない」(III,9)と評したために、「彼は傲慢で自らを高しとし、ひとと楽しまない」人物とされ、人気の汐が引いてしまう(III,8)。ついには「彼は世界中で最も高慢な不愉快な男であった。誰もがもう二度と来てもらいたくないと思った」(同)と記されている。
 このように書いてくると、このダーシーこそ、最悪の性格をした人物としてやり玉に挙げられていると思われるかも知れないが、もちろんそうではない。右に挙げたダーシーへの嫌悪はエリザベスがふざけて、面白おかしく触れ回ったために生じたものであった。また、ダーシーの〈プライド〉は、エリザベスの友人シャーロットに言わせれば、
「あの方のプライドは、プライドが普通そうであるのとちがって、私にはそう気に障りませんよ。ちゃんと理由があるんですからね。誰だって、あれだけ立派な青年で、家柄がよくて財産があり、何から何まで心のままなら、気位が高くなるのは、ちっともふしぎじゃないもの、そう言ってよければ、あの方にはプライド高くなる権利があるのだわ」(V,16)
となるのだし、エリザベス自身も、
「わたしだって、あの方がわたしのプライドを傷つけたのでなかったら、すぐにもあの方のプライドを許してあげられたと思うわ」(V,17)
と答えている。
 このprideという言葉は、手持ちの辞書によると、a feeling of satisfaction, a sense of dignity and self-respect, satisfaction in one's own or another's success or achievment と言った側面と、 an excessively high opinion of oneself という側面を表すのである(註八)。つまり prideという語は、arroganceと magnanimityとを含意しているのである。それは日本語では「矜恃」という言葉に当たるといえばいいだろう。つまり〈矜恃〉は一つの語が〈傲慢〉と〈高邁〉という一方は悪徳、他方は徳を表す二つを含んでいるのである。そこで、われわれの考察は、ここで高邁と傲慢とを、一般的に明らかにしておくことから始めるのが好都合であろうと思う。
(高邁)とは、magnanimity(magna-animitas)という言葉が示しているように、〈大きな心〉である。自分が大きなことがらに相応しい人間であるが故に、そのように考えている人間の徳、これを高邁と呼ぶ。またそういう徳を備えている人が高邁な人である。これに対して、じっさいはそうではないのに、自分自身が大きなことがらに値すると見なしているような人を自惚れた人、傲慢な人と呼び、その不徳の名が〈傲慢、自惚れ〉である。ところで、最も高邁な人というのは、彼がまさに最大のものに値する人であってみれば(註十)、最もすぐれた人でもあることになる。最も優れた人は最も偉大なものに値する人であるから。こうして高邁な人は他の諸々の徳をも備えている人であることになり、その人に相応しいのは名誉であることになる。しかし、この名誉はやはりすぐれた人によって与えられる名誉でなければならない。どうでもよい人たちから、しかも些細な理由で与えられる名誉などは、高邁な人はそれをすっかり軽蔑するだろう。なぜなら、彼はそういうものに相応しい人ではないからである。こうして、高邁な人は(じつは名誉でさえも小さなものとみなすことになるのだが)他の様々のものを取るに足らぬものとみなすそのために、彼は〈尊大な人〉と思われてしまうことにもなる(註九)。
 先のエリザベスとシャーロットが口にするダーシーのプライドは、そしてまたエリザベスのプライドも、不徳な人間にかかわる〈傲慢〉というよりも、むしろ立派な人間に値する〈高邁〉であることになるであろう(註十一)。Pride and Prejudiceという書名の Prejudice は、たしかにまずエリザベスがダーシーに対して持つ偏見であるが、さらに立ち入って考察すれば、傲慢と高邁を取り違えるところに関わることが分かるであろう。
 こうして、エリザベスの茶目っ気によって、傲慢な人間にされてしまったにもかからわず、ダーシーのプライドは、有徳なすぐれた人間の印ともなる高邁をも含むものであることが、実は明らかになったであろう。じっさい、ダーシーは風刺という意味での笑いの対象にはなりがたい人物である。
 
(二)、滑稽なひとびと
 それでは、劣った性格の人、嗤われるべき人たちは、どのように描かれるであろうか。いくつかの場合を検討しておこう。(註十二)
(イ)コリンズとシャーロット・ルーカス
 エリザベスの従兄弟で、父親のベネット氏が死亡すると彼女の家の財産を全て限定相続することになるコリンズ氏の場合は、(1)結婚を感情の問題を入れずに合理性によって切って落とす(XIX,100-)(この点、ダーシーの場合と好対照である)。その理由の@は、まさにこの書物の冒頭句に該当する(註十三)。経済性が片付いた者は、その次のこととして結婚を考える、というのである。A男女の結びつきが幸福を増進するからである、というが、これはどういう意味であろうか。経済性と男女の自然性の順序の問題が転倒させられているのである。人は金がなければ一日も生きてゆけぬかもしれないが、男女の一組は、その経済をいかに運営するかを算段する単位なのではないか。「ひとはひとりで生きてゆける、二人になると楽しさが加わる」などというものではない。
Bパトロンが勧めてくれたことが、それがどういう意味であるかは問われずに、結婚の理由となる。エライ人のオボエを良くすることが得策であると考えられている。コリンズはその他にもパトロンのキャサリン・ダ・バーグへのベンチャラのために数々の醜行を行っている。ところがダ・バーグ夫人の薦めの中味たるや、何と!「彼女(ダ・バーグ自身)のためにも自分のためにも、あまり教育の高くない女を選べ」というものであった(XIX,101)。
C結婚申し込みの相手であるエリザベスの天性である知的快活さを殺すことを表明しながら、口先で自分の愛情の激しさを〈保証〉するという人物である(同右)。
D財産(経済性)を何とも思わぬと言うのもおかしなことながら、そういう口の下で、妻にしようとする女性の経済的価値を値踏みしている男(同右)。
(2)神に仕える身でありながら、神に全く関わらない irreligious さ(註十四)。リディア問題に関して、ベネット氏にあてた手紙も、神に縁なき牧師を演じて、重要であろう(XLVIII,277-8)。
(3)真に大いなるものを知らぬ人物の、立場上弱者の位置にいる者への横柄さ(XIX 全体にわたって)。〈横柄な求婚〉というテーマで、ダーシーの場合とコリンズの場合を比較してみると面白い。
(4)三日のうちに二度のプロポーズをする離れ業(XXII,120)。
 コリンズの妻となるシャーロットは、父親が滑稽な人物であるのに加えて、
@「コリンズの愛を受け入れて結婚を承諾する」と書きたいところだが、まるでそういうものではない結婚をするところ。まず、策を用いて(XXII,116)コリンズが二度とエリザベスに求婚しないように親切に振る舞い、コリンズに情熱的な求婚をさせる暇を与えず〈結婚で身を固めることへの純粋無私なる欲求〉からのみ、結婚話を決めてしまった。彼女の唯一の関心事は経済性であり、エリザベスはこれを〈抜け目なさという光に照らしてみると、私の友だちにとっては良縁〉であると皮肉っている(XXXII,168)。相手がどういう男であろうと、結婚生活がどういう関係構築をすることになろうとお構いなしに、ただ生活への備え(provision)のみが彼女の結婚の目的であった。作家は、コリンズに与えたのと軌を一にする〈結婚ー経済〉関係の真理命題を彼女のためにも編んでいる。「高い教育をうけた財産のない若い婦人にとっては、結婚のみが唯一あっぱれな備えであり、幸福を与えてくれるかどうかはいかに不確実であっても、欠乏からいちばん愉快に守ってくれるものであった」(XXII,117)。
A結婚後の家庭生活ではコリンズとはなるべく時間を共にしなくて済むように工夫する(XXX,159)。
B三日の内に二度プロポーズをした男の奇妙さもさることながら、それを承諾した女の humiliating picture。それがシャーロットであり、親友エリザベスの信頼を失う(XXII,120)。
C連れ合いとの心の断絶。「コリンズ氏のことが忘れられ得ると、たしかに大変な安らいだ雰囲気がそこいらに満ち溢れたし、シャーロットがそれを明らかに楽しんでいるのを見ると、彼はしばしば忘れられているにちがいない、とエリザベスは思った」(XXVIII,149)。
D世間的利益のために、よりよい感情を全て犠牲にしてしまう(XXII,120)
 これらは結局は、真に恐れるべきものを知らぬということを示している。「わたしはロマンティックな人間じゃないわ」(同)というが、作家は、ここでは恋こそが高い者への関わりを示すものと考えている。
 彼女の結婚の末路がどうなるかを示すおもしろい一例は、キャサリン・ダ・バーグの引き起こす〈嵐〉を避けて実家に逃げ帰る処(LX, 363)に見られる。結婚が避難所ともならぬこの家族の先の困難が思いやられる。しかし、それよりも作家自身は、彼らの結婚のいきさつ、結婚生活そのものが悲惨であり、滑稽であることを描き出しているのである(註十五)。
(ロ)ウィカムとリディア
経済問題においてダーシーに大変な恩義がありながら、却って卑劣にもエリザベスのダーシーへの偏見を増幅させるウイカムは、ダーシーへの復讐と持参金目当てにダーシー嬢と駆け落ちを企て、キング嬢を籠絡しようとし、ついにはエリザベスの妹リディアと駆け落ちをするに至る。一口で言って、ウイカムという男は、生きる原理が財(地位)欲と色欲の二つである人物である。したがって、この二つに引っかかっている読者には、本書で彼が嗤われているということは、理解できない。概して、オースティンの作品は文学的教養が充分でないと、理解できないと言われているが、とりわけ〈性格〉の問題として、或る性格の人間にでなければ、理解できないと言えるのであろう(註十六)。
 リディアについては、「若さとまあまあの身体つき以外には何の魅力もない。無知と精神のからっぽのために、自分のちやほやされたい病が引き起こすに違いない世間の軽蔑を避けることが全く出来ない。そんな浮気娘、最も悪い最も下品な浮気娘」(XLI,218)。ブライトンで「いちどに最低六人の将校といちゃついている」自分を空想する(註十七)。ウイカムと駆け落ちをし、尻拭いは全部、ウイカムの宿敵ダーシーにさせて、平然と家族と目見える厚顔無恥(五十章)。
(ハ)ベネット夫人
@コリンズ・シャーロット問題で、「限定相続問題さえなければ、私は(シャーロットのことを)何とも思わない」と言う、シャーロットと同類の人間である。この小説のはじめから終わりまで一貫して、人間の卑しさを表現するための配役である。
A右にあげたリディアがブライトンで「いちどに最低六人の将校といちゃついている」自分を空想する時、ほとんど同じ事を空想していたと思われる四十女(XLI,219)。リディアの駆け落ち問題が生じると、娘の過失は、元はと言えば主として自分にありながら自分以外の誰彼の責任にし、自分の意見が押し通せて自分が家族の皆とブライトンに行っていたらこんなことにはならなかった、と言う(XLVII,268)。
Bダーシーへの一貫した非難(XVIII,94〜)と、自分の実入りに関わると手のひらを返すような愛想の振り撒き方をする(LIX,358)。
Cベネット夫妻の結婚は、ベネット氏が「若さと美しさ、および、一般に若さと美しさが提供する見かけの上機嫌に心を奪われて、一人の女性と結婚したが、その女は理解力が弱く心が偏狭なので、結婚するとまもなく、その女に対する真の愛情は終わりを告げた。尊敬と信頼は永久に消え、家庭の幸福という考えはすっかり打ち壊された」(XLII,222)。彼の皮肉に関しては、肯定的評価を下す論者もいるが、自らの定見のなさによって荷物を背負い込んだ阿呆が荷物や周囲に強がっている図にすぎないだろう。彼のウイカム観は検討するに値しよう。
(ニ)キャサリン・ダ・バーグ
 ダーシーの高邁さを描き出す上で、重要な役割を担っているのが、彼の叔母であるダ・バーグ夫人である。彼女は「他人に指図する理由になることならどんなことも見逃せぬ」女(XXIX,154-5)であり、「コリンズの教区の最も活動的な一長官であり、教区内のどんな小さな問題でも、コリンズによって彼女の処へ持ち込まれる」(XXX,159-60)。とりわけ彼女のエリザベスへの「妨碍工作」(LVI)は、力あるものが自分の意志で全てを支配できるという思いを全面的に打ち出している。これとの対比により、同じく力ある者でありながら意志を別の(本当に依拠できる)ものに委ねるダーシーの姿が鮮明に描かれることになる。
 彼女は、コリンズからビングリー、ジェーンの婚約に加えてダーシーがエリザベスと婚約するという話を聞いて、これを妨碍するためにエリザベスに会いに来る。ダーシーは自分の娘と許婚でありエリザベスに求婚するはずがないと言いつつ、エリザベスに婚約しないと約束せよと詰め寄る。@姉であるダーシーの母親と赤ん坊の頃から二人を一緒にすることにした。これは宿願 favorite wish であるから、礼儀 propriety 思い遣り delicasy をもって身を引け(LVI,335)、A自分はどうしても思いを遂げる堅い決心で来たのだから、この意志は遂げさせて貰う(336)、自分の要求に保証をよこせ(337)と言うのである。
 
(二)、ふつうの人間
人間の人柄を論じる際に、優れた人間と劣悪な人間の間に〈普通の人間〉などというものを置くことが出来るのかどうかは、疑問である(註十八)が、作家はビングリーとジェーン、ガードナー夫妻の二組については、大いなる同情をもって、普通の人間に描いているように思われる。
@ビングリーとジェーンは、二人とも理解力はあるが、決断力に欠けており、人を評するにおいて悪意を抱くことがない。ジェーンは恋の狂気といったものを有しないし、また本書の人間評価の観点といえる経済法則と恋愛法則に執着しないことによって(VI,19)喜劇の対象となることから免れている。ビングリーには、 general incivility というものが認められる(XXV,133-4)が、それはダーシーにおいてこれから次の節で見てゆくものではなく、いわば、この作品の第二の人間評価の観点である〈神的なものへの洞察〉は、彼においては語り得ないのである。
Aガードナー夫妻は、右の点については、ほとんど不明であるが、二十五章に登場して以来、この作品を動かす役割を担い、小説の結末にも好意を以て触れられている。
 
(三)、すぐれた人間
@エリザベス・ベネットはやはりここで挙げるべき人物であろう。
 ダーシーに踊りを申し込まれて、自分を偉くなったものと思ったり(XVIII,86)、ダーシーの館に居て、その主婦になっているところを想像する(XLIII,228)といった俗人の性格が見られる。また彼女は、ほとんどの場合、ただの〈さめた理性の人〉である。ウィカムとの関係を問われて書いた手紙では、「親愛なる叔母様、わたしはたいして恋していたのではなかったと、いま確信しています。なぜかといって、もし私が〈あの純粋な心を高める愛〉をほんとうに経験したのだったら、わたしは今頃は彼の名前さえ不愉快だろうし、あらゆる災厄が彼にふりかかるよう祈ることでしょう。」(XXVI,142)と述べている。
 しかし、われわれは彼女の処遇には手を焼かされる。ただの〈醒めた理性の人〉と評して終わる訳にはゆかないのである。まず少なくとも計算高い理性の人では決してない。もし彼女が、本書の冒頭句を真理として受け取るほどの人間であったならば、この作品は最初の展開が不可能であったろう。彼女は、経済性よりも大事な事柄が何であるかを弁えている(XXVI,137)。限定相続を鼻先にぶらさげて結婚を迫る滑稽男コリンズに対してなびかなかった点。また、ロージングズ邸を訪問するに際して次のように記されている。「エリザベスには勇気の徳があったので、気圧されなかった。彼女は、キャサリン夫人について、何か異常な才能か不思議な力によって畏れ多い人だとする話は、何も聞いていなかったし、ただの金と地位の威厳なら、怖れなしに立ち会えると思った」(XXIX,152-3)。
 エリザベスは、情熱のことを理解しているというと言語矛盾のように思われるかも知れないが、人は時として感情の働きに素直に従うべきで、理性、分別の方に道を譲らせねばならないことを知っている。姉が危ないという手紙を読んで、無謀にもぬかるみを三マイルも歩いて会いに行く(ダーシーがこれに感激するのも意味がある)箇所(VII,28)。同じくリディア問題(XLVI,259-60)。
 これが恋愛の問題となると、次のように展開する。自らは男を見て狂気におちいるということはなかったものの、その語るところでは、理性を越えた「すぐれた人間の恋の本質」というべきものを見抜いている。彼女の叔母が「はげしく愛して」という表現が「真実な愛にも」「半時間のつきあいから生じる感情」にも使える、と指摘し、ジェーンらのはどちらかと問うのに対して「誰にも不作法になってくること general incivilityが、「恋の本質」ではないか?」(XXV,133-4)と答える。ここではいずれにしても恋は一種の「狂気」であることを、エリザベスは解している。ただし、それはまたリディアのようなものではない。「ただ情熱が貞操よりも強かっただけで一緒になった夫婦が、そういつまでも仕合わせであられるはずがないことは、彼女にも容易に推察することができた」(L,293)と言うのは、ただの狂気としての恋と質的に異なる、真の仕合わせをもたらす恋との違いがエリザベスには感じられていることを示しているであろう。これは合理性の話に後戻りさせてはならないのである。
 さて、真に恋する者の導により、大いなるものを見るに至る例は、ここにはないだろうか。エリザベスの恋は、一目惚れでないどころではなく、長く偏見によって憎んできた相手に愛の告白をされて(三十四章)始まったものであった。それは感謝と尊敬というべきものであった(XLVI,260,XLIV,248)が、著者はそれに一見否定的な評として、不合理、不自然であるかのように書いている。しかし、このような形の恋も、「理性的で(当然で)正しい reasonable and just 関心 interest」(LIII,315) と呼ぶことが出来るのである。なぜならば、優れた恋される者は、優れた本当に心の底から恋する者によって、身は神の如くありとあらゆる奉仕を受ける訳であるし、またまことに運命の定めは、善き人が善き人と友にならずにいることを決して許さないのであるから、恋する者が持つ優しい心情が身近に感じられて、恋される者の心は感動に打たれ、彼女ははっきりと識るのである。神に憑かれたこの一人の親しい人に比べれば、他のすべての友人たち、すべての身内の者たちを一緒に合わせたとしても、彼らの与える友愛などものの数にも入らぬということを。こうして、優れた人は優れた真の恋する者の導によって恋する者となるのである(註十九)。
 こうして彼女は、キャサリン・ダ・バーグの先の二つの押しつけに対して、@「あなた方(キャサリン姉妹)お二人は、子供たちの結婚計画に、出来る限り尽力されたのです。それが完成するか否かは、他の人たちに依るのです」(LVI,335)と答える。それは、人間のことがらには、個々人の意志によってなされることがらと、意志を越えたことがらがあり、後者に関しては、意志あり力あるものに委ねなければならぬことを示しているであろう。また同じくAに対してエリザベスは、自分は保証は断じてしない。脅されてそのような全く筋の通らぬ話をうけいれるつもりはない(337)と答える。相手、ダ・バーグの要求は、自分の意思を越えた事柄を、私しようとすることに他ならないからである。
Aダーシー
 すでに触れたように、ダーシーは「プライドの高い人物」と見なされてはいるが、傲慢という意味では、それはエリザベスの偏見に依るところが多く、一般の人には「大いなるものに値するがゆえにそう自らを持している」 magnanimous の人であった。これで世間的には立派な有徳の人であるということが出来る。ダーシー自身はしかし、この存在様式に関して厳しい自己評価を下す。
 「主義としてではないが、実際のところ、わたしは生涯利己主義者だったのです。子供のとき、正しいことは教えられたが、自分の短気を直すことは教えられませんでした。いろいろ立派な教義は授けられたが、矜恃と自負心をもってそれらの教義に従うよう、わたしに任されたのでした。不幸にも、わたしは一人息子(長い間一人っ子)だったので、両親に甘やかされたのです。両親はいい人でした-----ことに父はとても慈悲深くやさしいひとでした-----が、わたしに対しては彼ら自身は、利己的で横柄であるように、自分の家族以外の者のことはかまわないように、世間の人たちを軽蔑するように、少なくとも、自分に比べて世間の人たちの判断力や道徳的価値を低く見たがるように、構わないでおき、し向け、教え込んだとさえいっていいようなことをしたのです。八歳から二十八歳まで、わたしはそういう人間でした。そして、いとしいエリザベスよ、もし君がいなかったら、今でもわたしはそういう人間だったかも知れない。すべては君のおかげだ。君はわたしに、最初のうちはじつに辛いが、とてもためになる教訓をくれました。わたしは君に卑しめられたが、これは当然のことです。わたしは(プロポーズを)君に必ず受け入れて貰えるものと思って、君に近づいたのです。ところが君は、わたしという男は取り入るだけの価値のある婦人に取り入る資格のない男だということを教えてくれたのです」(LVIII,349)。
 ただしわれわれは、これはエリザベスの痛烈な批判を受けて真剣に自省を重ねた上でのダーシーの見解であることを知らねばならないだろう。そのことは、むしろエリザベスが、家政婦レイノルズ婦人を通して知っている。「聡明な召使いの賞讃ほど貴重な賞讃があろうか。彼女は考えた。兄として、地主として、主人として、どれだけ多くの人々の幸福が、彼の保護の下にあることだろう。どんなに多くの喜びを、また苦痛を、彼には与える力があることだろうか。どんなに多くのいいことでも悪いことでも、彼によってなされるにちがいない。家政婦の持ち出した見解は、どれも彼の性格をよく見せるものであった」(XLIII,233)。
 しかしながら、ある種の人間は、こういう状態から〈さらに〉進化を遂げることができる。ダーシーはまさにそういう種類の人間であった。
 さて、ダーシーの変身(註二十)は、エリザベスへの恋にはじまる。彼は、ビングリー以上の財産と収入を有する独身青年ではあったが、「普遍的に承認されている真理」と作者の皮肉る「相当の財産を持っている独身の男なら妻を欲しがっている」という法則には、無条件には合致せぬ男であった。さしあたり物語に登場する人物だけでも、ビングリーの妹は、少なくとも彼と同じ教養を共有し得る身分にあり、また彼女自身十分な計算ずくで彼に迫るのであったが、彼女を細君に迎えるなどという feeling も vew も持ち合わせない。つまり物欲も色欲も、満たそうと思えば自由になるだけの相手が身近にありながら、それに耽らない。抑制が利いていたということだ。彼には、結婚相手に関しては、家庭環境が申し分ない(VIII,33,X,48)ことの他にも高い条件があった。一つには、互いに恋しあうこと(XXXV,186)。一つには、教養を備えていること、ものが分かること(VIII,36)(註二十一)。
 ところが、そのダーシーが狂い始める。物語の始めには、「誰にも少しの興味も感じなかったし、誰からも気持ちを引かれることも楽しみを得ることもなかった」(IV,14)ダーシーが、「がまんはできるが、僕が誘惑されるほどの美人じゃない」(III,9)と評していたエリザベスに狂い始めるのである。「ただ批評するために彼女を見た」ところでは、「彼女の目鼻立ちには一つとして取り柄がないと言うことを、自分でもはっきり知り、友人たちにも言った」のだが、「そのすぐ後で、彼女の黒い瞳のうつくしい表情が顔全体をなみなみならず聡明にみせていることに、気づきはじめていた」。さらに「それに続けて続々と、同じように当惑させられることが〈しゃくにさわることながら mortifying〉発見される」(いずれもVI,20)。「ただ批評するために」エリザベスを見たときには、それは他人の眼、借り物の眼を通して見ていたことになろう。しかし、その間にも、美の現臨は、人造の約束事に依らず、ときには〈しゃくにさわる仕方で〉すら突然生起する。いきなり全く別の処から来る「基準」によって惹き付けられ魂が奪い去られることになる。-----ここのところ、ウイカム・リディアの恋と比較してみるといいだろう。彼らの恋が、仮に分別を失った一種の狂気ではあるとしても、世間の約束事(すでに触れた財産、美貌)を秤としているのに比べて、ダーシーの場合は、(彼ははじめから社会的儀礼に対してはおかまいなしといった記述をされているのだが)(註二十二)、かなり重症の狂気である。彼はやがて自らまだ抑制の利くのを自覚しながら、(「こんなに自分の心を迷わせた女ははじめてだ」と思いながら)「もしこの人の親類関係が悪くないとすると、自分はとんでもないことになっていたにちがいないと思った」(X,48)。恋は始まっている。それはいつはじまったのか、と問われても、「はじめたことに気づかぬうちにわたしはもう中頃に居た」(LX,359)と答えるほかない。自分の意志で始めることならば、いつ何時だったかが言えもしようが、そうではなかったのだ。
 それにしても、ここではまだダーシーは引き返せると思っている。ところが、こともあろうにダーシーを誤解して、憎しみも加わったためにいよいよ自在に振る舞うエリザベスのその生き生きとした振る舞いは、ダーシーの恋心をさらに突き動かす。決定的な瞬間は、次のように記されている。場所はコリンズ家、エリザベスが一人でいるところにダーシーが現れ、二人でコリンズ夫人の話、とくに彼女が自分の家族の近くに住むことが出来て幸福かどうかを論じているところ。
「ダーシーは自分の椅子を、すこし彼女の方へひきよせて言った。『あなた自身は、それほど強く土地に執着する権利はありません。あなただって、ずっといつもロングボーンにいた訳ではないんですから』。エリザベスはびっくりした顔つきをした。ダーシーは、なんだか自分の気持ちが変わったのを感じた」(XXXII,169)。
 ダーシーの口にしたことは、人として生きるには、生まれたところ、家族、因習に囚われず、ことがらの成り行きに任せて身を処すべきである、ということであり、エリザベスもこの法則に従うべきである、ということであっただろう。ところが、エリザベスが家族の住む土地に執着せずに成り行きに従って生きるとは、ダーシーの立場ではどういうことを意味することになるか。他ならぬ自分の妻になると言うことではないか。彼は思いを口にしたために、そこまで決意してはいなかったにも関わらず、口に出た言葉が気持ちを引っ張ることになった。言葉が現実をそこに現す。それはまた、彼自身、因習になお囚われて、エリザベスの両親、親族と自分の家との釣り合いがとれぬことを理由に先に進めなかった心の障壁を一気に突き崩すことになってしまったのである。彼はうつろな眼をしてエリザベスを見、生気を失ったようにぼーっとして来た(170-1)。そうして、エリザベスにおいて姉およびウイカムに関する不幸の原因者として彼自身への憎悪が極まった時に選りによって、彼女に愛を告白するのだった。
 「わたしは努力しましたが無駄でした。うまくゆかないのです。私の気持ちは抑えられません。どうか言わせてください。わたしはどんなに熱烈にあなたを崇拝し、あなたを愛していることか」(XXXIV,178)。
 ここには、magnanimity の人、ダーシーが居る。
 ここから、ダーシーは恋の飛翔の翼の助けを受けて、天翔ける。
 それは、エリザベスの一言、「ダーシーさん、あなたは誤解していらっしゃる。あなたの告白がわたしに効き目をもたらしたのは、ただ、もしあなたがもっと紳士らしく振る舞われていたら、わたしがこのお申し出をお断りするのに感じたかも知れない気遣いを免除してくれたということだけですわ」(XXXIV,182)という言葉に対応するものである。ダーシーのこの言葉の受け止め方は、エリザベスの述べたとおりではなかった。だがここから、彼の大変身は行われる。
 これに対して、ある人たちは、こういう筋書きは不自然である、と作家を批評する(註二十三)。不自然だろうか。筆者は、ここにこそJ・オースティンの真骨頂がある、と読む者である。以下に、この問題を論じることにしよう。
 
 ところでわたしは、高邁の徳を検討するに当たって、まだそれに関わる最も重要なことがらには敢えて触れずにおいた。それは、高邁(のみならず、全ての徳がそうなのだが)は、最も大きなものに値すると言ったが、その〈最も大きなもの〉とは、他ならぬ〈神〉のことにほかならないという点である。
 
(四)ダーシー変身の中味
 ダーシーの変わったことは、エリザベスの目を通して描かれる。エリザベスに愛を告白し、激烈な拒絶を受けたダーシーは、その後叔母夫妻と共にペンバリーを訪れた彼女に出逢う。予定では翌日帰邸するはずのところ、「意地の悪い巡り会い」(XLIII,235)となったのだが、ダーシーの物腰は、この前分かれた時とはまるで変わっており、エリザベスを面食らわす(XLIII,234)。それはやがては次のように記される。
「数ヶ月前にはそんな連中と付き合うのは不面目であったはずの人々にこのように近づきを求め、その人たちを信用しようとしているそんな彼を、エリザベスはいつ見ただろうか。彼女に対してばかりでなく、以前には公然と軽蔑してきた彼女の身内の者たちに対してまで、彼はいつ、これほど丁寧であっただろうか。そうしてハンスフォード牧師館での自分たちの打々発止のシーンを想い出すと、その相違、その変化は余りに大きくまた余りに強く彼女の心を打ったので、彼女は驚きを見られないようにすることはほとんど不可能であった。ネザーフィールドで彼の親しい友だちといっしょにいた時でも、またローズイングズでご立派な親類の人たちといっしょにいた時でも、彼女は、彼が今ほど人をよろこばせようとしているのを、また尊大さやあるいは頑固なわだかまりから解き放たれているのを、見たことはなかった。今となってはもう、そういう彼の努力がどんなに成功したところで、どうということはないし、むしろいま彼が大事にしているこの人たちとの交際は、ネザーフィールドやローズイングズの貴婦人たちの嘲笑と非難を招くことになるというのに」(XLIV,245)。
 我々はすでにダーシーにおけるプライドを高邁と呼ぶべきものであり、すぐれた人間の特性を示すものであると述べてきた。いまや、ことによると〈卑屈〉という悪徳と誤解されるような変わり様なのである。有徳の者を悪徳の者に描き変えるほどの、これこそ〈不自然〉が行われていることにならないであろうか。何のために、作家はこれほどに変身を遂げさせるのであろうか。
 ダーシーの変身を不自然と見る者の眼は、おそらくダーシーの変身の下にある一貫性について理解が出来ないのではなかろうか。もともとダーシーの高邁さに備わっていたものが、ここにおいて(エリザベスの酷評を機会に)純化して現れたと読むことが出来れば、我々は作家の意図を十分にくみ取ることが出来る。
(高邁の徳のめざす目的について)
 我々は先に、高邁は、自分が大きなことがらに相応しい人間であるがゆえにそのような者だと自認している人間の徳だと述べた。ではその「大きなことがら」とは何であり、また高邁の反対物と思われる〈謙遜〉とはどういう関係を有しているのであろうか。すでに先人が考察しているところによると、たとえばこうである。人間がもと造られた時に期待されたところ(つまり神の似像であること)に到達することは困難である。ここから人間にはそれへと到達しようとする〈希望する動き〉と、そこから〈しりごみする動き〉が生じる。この希望し、欲求が目的に向けて突進する動きを、正しい理から外れて大きなものへと向かわないようにする倫理的な徳が〈謙遜〉であり、目標から後退しようとする心の動きを駆り立てて目標へと向ける倫理徳が〈高邁〉である。言い換えると、高邁とは「心が絶望しないで大きな事物に向かうように励ますもの」であり、謙遜とは、「心が自惚れて大きな事物に対して不正な欲求をいだかないように抑制するもの」(註二十四)なのである。では、人間が本来目指すべき大きなものとは何であろうか。我々はそれをこそ〈神〉と呼ばなければならないであろう。高邁な人は、我々人間のそれへと向かうべき最大のものへと向かっており、そのことを自認している人である。これに対する傲慢な人は、最大のものに向かっておりそれに値すると自認しているが、その実、最大のものの何たるかをも弁えていない。そして自らが最も大事にしているものを神であると思いなす(プライドに近いものとされる虚栄 vanity はかかるものである)。したがって傲慢の人は、実際は財産や地位など、偶然に得られたものを最大の拠り所として生きているのである。作家が傲慢な人間を嗤いものにするのは、まさにこのゆえである。本来人として求めるべきものと、彼の獲得していると思っているもののギャップが余りに(実は無限に)大きいので、おかしいのである。
 さてダーシーは、エリザベスと同じく、しばしば自分が selfish であると告げている。この場合の selfish というのは、しばしばegoism と区別して使われるような、自分だけがよければよく他を顧みない、というものではないであろう。他者の説得、他者の支配に身を委ねて自らを忘れるという生き方、あるいは世知 prudence と称して道義と誠実をないがしろにすること(XXIV,128-9本書ではシャーロット・ルーカス、ウイカムがその典型であった。あるいは財産に身を委ねるという仕方ではベネット夫人をはじめとする多くの登場人物にその気があると言える)と一線を画して、〈自らの為〉ということをとにかく中心に据えて諸々の選択を行うことを意味するであろう。ではそのselfish な人間はどういう生き方に行き着くのか。上に見た高邁や謙遜の徳は、じつはダーシーのselfish の一つの到達点であるということが出来るだろう。なぜなら、人間にとって最も大きい者、あるいはいわば生命の核をなすものを自己の生命の中心に迎えて生きる形式なのだからである。したがって、高邁な人であるダーシーは、立派に生の形を有していたことになる。
 それでは〈高邁から卑下・謙遜へ〉という大変化は、ダーシーにおいてはどのように説明されるべきなのだろうか。有徳な人は全ての徳を備えているはずであり、ダーシーが高邁な人であったならば、謙遜な人でもあったはずではないのか、と問われるであろうからである。ここに我々は、エリザベスはそのことを理解している〈神的な狂気〉としての恋(XXV,133-4)の秘密を見なければならないのだと思う。すでに触れたように、次第にエリザベスの魅力に取り憑かれたダーシーが、恋における最後の変化を遂げる。それはダーシーが、人は人として善く生きるためには、生まれた場所に囚われるべきではないとエリザベスに述べたところで生起したことであった。彼は恋をした。彼は英国紳士の家柄としては辺りに並ぶもののない家の者であり、そこいらの家柄の者と縁を結ぶことは、分別の働く領域ではあり得ないことであったにも拘わらず、その社会的因習の障碍を狂気によって乗り越え、エリザベスを妻とすべく愛の告白をしたのであった。
 ダーシーにとっては、エリザベスが「明らかにわたしの感情を害し私を侮辱するつもりで、あなた自身の意志に背き理性にそむき性格にそむいてまで」(XXXIV,180)「あなたはたしかにいやいやながら好意をお示しになった」(同,179)と評するのがもっともな奇妙な告白も、〈自然な正しい感情 feeling, natural and just〉(同,182)の発露であった。彼自身にも「自分がもっと策を用いて、自分の煩悶を隠し、わたしがいかにも無条件で純粋な愛情によって、理性によって、反省によって、それからありとあらゆるものによって、推進されたかのようにあなたを信じ込ませていたら、あなたはこんな苛酷な非難はなさらなかった」(同,181-2)ということは分かっていながら、敢えて先のようにしたことの方が〈自然な〉のだと言うのである。恋にはまり込んだばかりのダーシーにとっては、それが分別を先立て、目的遂行するよりも大事なことであった。しかしエリザベスの最も痛烈な批判は、それが紳士らしい態度ではない、というものである(とダーシーは受け取った)(LVIII,347)。神的なものに至ろうとする〈神的狂気たる恋〉は、自らの恋する神のような存在の宣言には、絶対的に服従をせざるを得ない。
 かくして、いまやついに恋する者の魂は、恋人の跡を慕うとき、慎みと怖れにみたされるということになるのである(註二十五)。これは悲劇を見るすぐれた人の受ける影響と同じではないか。もともとかの人は「ゼウスの従者であった人々」(註二十六)であり、神の御行幸に従って実在界を巡った魂(註二十七)であった。いま、自己に純化した恋する魂は、たとえば次のようなあり方を選ぶほかなかったであろう。すなわち、すでにエリザベスが述べたように、力ある者として何某かのことにその都度努力するのであるが、その際に、個々人の意志はそれを越えた者の意志による成り行きに委ねざるを得ない、というあり方を。この純化の方向は、キャサリン・ダ・バーグとの比較において、顕著に見て取ることができるものであって、それはエリザベスにおいて見たとおりである。
 
一、大島一彦『ジェイン・オースティン』七頁参照。
二、本論で詳述するように、コリンズ、ウイカム、ベネット婦人(あるいはビングリーも)、はこのような皮肉な〈真理〉に該当する人物であるが、ダーシーは決してそうではないし、シャーロットと叔母に対して語るエリザベスの見解は、これに該当しないのである。
三、つまり、経済法則に支配されているはずの我々の生は、当人の人柄によって、しばしばそれを第一の前提とは見なされないことが生じる。エリザベスは「愛情さえあればさしあたっては財産なんかなくてもどしどし結婚してゆく若い人々」(二十六、230)の例を持ち出し、自分もそうする可能性があることを述べている。他面、一々の場面でのそのような選択が人柄を形成して行くのである。
四、大島一彦、前掲書一九三ー四頁 など参照。大島氏はベネット氏、エリザベス、シャーロットの三人の名をあげて、ユーモア精神を心得ている登場人物とし、「彼らが読者の眼にさほど滑稽に映らないのは、彼ら自身が既に自分を滑稽に見ているところがあるから-----」と述べている。しかし、シャーロットやベネット氏が滑稽に映らないというのは、すでに笑い方に霞が掛かっているからであろうし、作者の意図に明白に反するものであろう。
五、以下テキストの引用は、ローマ数字によって章を、アラビア数字でeveryman's Library のページ数を示す。なお最初にオースティンに接した時から本稿の訳文を決定するに至るまで、富田氏には多くを負っている。
六、訳は、藤沢令夫訳を使用させてもらった。
七、大島、前掲書四頁にはラフカディオ・ハーンの言葉として「今日でさえ、文学的教養が十分でないと彼女の小説の並はずれた長所を理解することはできない。ありふれた品のない人たちには理解が届かないのである」といった文章が引用されている。
八、Collins English Dictionary
九、さしたるものでないのに最大のものと思われる場合の例として、幸運による高いものがある。XV,65のコリンズの場合
十、筆者はここでは、アリストテレス『ニコマコス倫理学』第三巻を背景にしている。
十一、しかし人の眼にどう映るかによっては、高邁と傲慢の区別は出てこない。
十二、彼らは、多くの読者が気付かないように、いきなり嗤われる訳ではない。大いに同情に値するのである。また、ここにはひとまず下のように述べるのであるが、彼らの真の嗤うべき性格というのは、作者によれば、もっと深刻なことになると思われる。それはダーシーの優れた性格を描くことによって、その欠如態として示されるのである。したがって、この作品は一度読んで終わりとする訳には、どうしても行かない。
十三、ちなみに、この女性版の格言を身に負うているのが、コリンズの妻となるシャーロット。XXII,117.
十四、ちなみにこの作品には God という語は一度も出てこない。religious という語も使われていない。ただ irrerigious がXXXVI,196に一度だけ見られる。しかし、そこから富田氏のように、この作品に神が姿を見せないなどという結論を導くと、大きな失となろう。
十五、ところで、ある作家たち(たとえば漱石)にとって、このような経済観、結婚観からいかなる人生の破綻が生じるかということが重要な関心となり、作品の主題となるのであるが、オースティンにおいては、ここからいかなる破綻が生じるかなどという悠長な論は生じない。ここに描かれている人たちの生そのものがすでに破綻なのである。とはいえ、「悲劇」という語はここには不相応であり、喜劇でしかないのである。
十六、註七参照。
十七、トマリン『ジェイン・オースティン伝』二二二頁。
十八、アリストテレス『詩学』では、「我々自身を標準として」三分法を語るかのようだが、著者アリストテレスがいずれに与する者であるかを考慮すれば、二分法に帰するであろう。
十九、プラトン『パイドロス』255A-D を参照のこと。
二十、この変身は、エリザベスの見方が変わったためにそう思われるだけなのかどうか。否、である。ガードナー夫妻の保証がある。
二十一、男女の結びつきの根源は、ここにダーシーの挙げるようなものなのであろう。相手を尊敬し合うということは、その前に各自の根源との結合が確かめられねばならない。分かるとか教養とは、このことに関わるのであろう。プラトン『パイドロス』見よ。
二十二、この点に関して、ある箇処 三十章からは、「いつもの遠慮をして」といった表現となる。
二十三、宮崎孝一『オースティン文学の妙味』六九頁に、「ダーシーの豹変ぶりは、あまりにも唐突で不自然だとする批評も多い」と述べ、Kenneth L.Mokler, Jane Austen's Art of Allusion のpp.93-94 を示している。ただし、氏は自らの見解は示していない。
二十四、Thomas Aquinas Summ Theologiae, II-2 ,Q.162,A.1.
二十五、プラトン『パイドロス』254e 参照。
二十六、同右、252e.
二十七、同右、249e.

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